を捧げなければな

ババ抜き(トランプのゲーム)のババ、今度は誰が持つ?
ハンカチ落としのハンカチ、誰の後ろに落とされる?


こんな思いで、長年わたしがいたことを誰が知っているだろう?
じつにけしからん思いである。
が、わたしは宗教に振り回されてきた眼袋槍
重い、深い、弾圧とはまた全く違う、、、ある意味、信仰の強制。
今、話題の宗教二世とはまた別もの。
全く意味合いが異なるのではあるが、微妙に共通点もある。


それは嫁ぎ先の宗教に染まらなければならないこと。
嫁ぎ先の先祖を敬わなければならない。
見たことも聞いたこともない、実質的アカの他人の皆皆様に、延々と祈りを捧げなければならない。
それは、「女偏(へん)に家」と書いて「嫁」と読む。
字の如く。そのまんま。
宗教行事は絶対的力を持つ。
それを執り行うことは、スゴイことなのだ水光针
伊勢神宮や平安神宮の宮司さんのようなもの?(ちょっと違うか、明らかに違うな、、、)


なにしろ、全エネルギーと知恵と労力と時間とお金をかけて、義務を遂行しなければならない。
宗派が違っても。信仰する神様が違っても。
旧統一教会などは、結婚までさせられるのだから、驚きを通り越して、完全に意味不明の洗脳をさせられる。
そこまで顕著なわかりやすい過激なことはないが、カテゴリー分けすると、宗教グループに属する。


洗脳されきっていない、中途半端な脳で、冠婚葬祭を執り行う。
麻酔をせずに外科手術を受けるようなものだ。
わたしは、かなり苦しんできた。


最初の頃は、はいはい、と素直に従い、なんとも思わなかったが、次第に眠っていた自分の考えが段々現れてきた。
葛藤。
だが、わたしも日本人に多い、やんわり仏教觀塘美容院
三々九度の盃をウエディングドレスで行う。
神式で、チャペルではなかったが、どっちでもたいして変わりない。
神聖なクリスマスイブはターキーでお祝い?!(意味もわからず、イメージ戦略に毒されている)

日が来るのだろうか

そう考えると(どう考える?)
たまたま長男と結婚したわたし。
信仰もしていない祀りごとの係を押し付けられている搬屋報價
が、先輩嫁である姑たちがやっていた。
さあ、自分の番。
いきなり手を離す。
バトンは、谷底へコロコロ落下。


今は次世代の嫁もいない。
婿なら素晴らしい人々が2人もいる。
が、バトンは渡さない。渡せない。
バトンは谷底へ。


息子はやがて谷底からバトンを拾ってくる日が来るのだろうか。
バトンを谷底に捨てたのは、わたしだけの責任ではない。
渡す相手が不在なのだ。


宗教心の押しつけ、祀りの義務、
夫のため、世間体のために渋々やっている週年禮品
樹木葬も商品化される時代。
次男さんなら飛び付ける。
重いものが、どしんと乗っかった長男の嫁は、なかなか一気に思い切った行動はできない。
で、またまた形骸化された行事を行うことになる。


しかし、、、
アタマの古いカチカチの親戚の中から、少しずつ古いしきたりを踏襲しない人が出始めた。
やったーーーっ!!
わたしは両手を挙げて大喜び。
夫はじつに残念そう。
あんなに大切にしていた絆、付き合いが疎かにされるなんて、と。
別に軽んじられているわけではない。
価値観の推移。
時代の波である。
自分の考え方を他の全員も同じようにしているのではないことを、皆さんの行動を通して徐々に知り始めた夫。


わたしは、徹底して、嫌われる勇気を駆使しまくった。
親戚一同、わたしのことは白い目で見ていることだろう。
いいの、いいの。
わたしの余生はわたしのもの。
親戚の皆さんのものではない抽濕機乾衣


仕事関係、友人関係で、年賀状のやり取りを辞退する人、
お葬式は家族葬にして日時を知らせてこない人、
法事を事後報告にする人、
もういろいろ出始めている。
少しずつ行動も変わり始めている。


自分がやりたければ、やればいい。
否定は全くしない。
だが、他者を巻き込むのは勘弁してほしい。


とかなんとか、既成事実として、古くからの家があるのでどうしようもない。
出来ることはする。
壊すことはしない。
今やっていることを最低限に縮小して、谷底に捨てるものと、小さい箱に入れる物を識別しておく。
大きなものは受け入れがたくても、小さなものなら、細い強いピアノ線のようなものなら、継承出来るのではないかと思う。
マインドの継承。
だが、強制や洗脳であってはならない。
人や自分を大切にする気持ちは、代々受け継がれてきた。


お盆。
仏前で自然に手を合わせると涙が流れた。
姑に対する感謝の気持ちが湧き出た。
これは宗教ではない。
人として、自然な流れを汲んだ気持ちだ。